秋月春風 閑人のブログ

歴史、読書、ペン字、剣道、旅行……趣味の話を徒然と。

難読地名の呼称変更について思うこと

 東大阪市に大蓮というと町名がある。親戚や友人がいた関係で、子供の頃から「おばつじ」という地名が耳に馴染んでいた。それが、私の学生だった頃、「おおはす」と読み方が変更された。呼称改変の理由は、元々は「おおはす」だったのが、時代とともに発音が転訛し「おばつじ」となったのだから、本来の読みに戻したのだという。
 地方自治法によれば、町名、字名の変更は、市町村長が市町村の議会の議決を経て定めることになっている。事前にその地区の住民の意向を打診し、協議することはともかく、住民の承諾を得る必要は無いとされている。

 「おばつじ」から「おおはす」と変更されて、もう50年経つ。大蓮の地名の由来は中将姫伝説の大蓮池(おおはすち)、あるい明治初期まで存在した大蓮寺(おおはすじ)に由来するというが、少々難がある。
 地名で○○池は普通「○○いけ」と読まれる。「○○ち」となるのは「○○調節池」、「○○温水池」などの場合のみである。熊本県の菊池は「きくいけ」ではなく「きくち」であるが、「きくち」という地名は、古くは「くこち」(狗古知)、「くくち」(鞠智)から転じたもので、この場合、「池」は単なる当て字に過ぎない。大蓮池が「おおはすいけ」ではなく「おおはすち」と呼ばれていたとは考えられない。
 寺名に関していえば、大和言葉の地名、人名などに由来するものは、漢字が音表記、であれ訓表記であれ、「○○でら」と読まれるのが普通である。
 當麻寺(たぎまでら→たいまでら)、薩摩寺(さつまでら)、曽我寺(そがでら)(音表記)
秋篠寺(あきしのでら)、飛鳥寺(あすかでら)、中山寺(なかやまでら)

(訓表記)
 観音寺、法隆寺延暦寺などのように仏教用語や漢語に由来するものは「〇〇じ」である。また訓読みの地名を読み替えて、音読する場合も「○○じ」ある。例えば、長谷寺「はせでら」は「ちょうこくじ」に、清水寺「きよみずでら」は「せいすいじ」、浅草寺「あさくさでら」は「せんそうじ」となる。
 大蓮寺は「おおはすでら」か「たいれんじ(だいれんじ)」であって、「おおはすじ」と呼ばれてた可能性は少ないだろう。もっとも、室生寺(むろうじ)、根来寺(ねごろじ)など「訓読みの地名+じ」の例も存在するが、「おばつじ」の「じ」が「寺」に由来するとは考えにくい。

 蓮はもともと「はちす」であり、花托の形状が「蜂の巣」を思わせることに由来する。大蓮は本来、「おほはちす」であり「おはちす」、「おばちす」そして「おばつじ」と転訛したと考える方が自然ではなかろうか。
 日本語の語中における「は」行音は奈良時代から平安時代を通じてF音であったから、その当時はOFOFATISUと発音されていたはずである。
OFOFATISU→OFOFATISU→ OFATISU→OBATSISU→ OBATSUJI
と変化したと推定する。通常考えられるように、OFOFATISUからOWOFATSU を経てO’OHASUへと移行しなかったのは、「ほ」が脱落した為ではなく、第2音節「ほ」(FO)の 母音O と第3音節「は」(FA)の子音 Fの脱落によるものと考えている。
そして、「おばちす」から第3音節と第4音節が転倒して「おばすち」となり「おばつじ」となったのではないかと考えている。古くは「す」はTSUに近い音だったことも関係しているだろう。
 京都の大原(おほはら→おおはら)が大原女(おはらめ)や大原御幸(おはらごこう)のように「おはら」とも発音され、「小原」(をはら)とも書かれているが、これも大蓮の読みの変化と同じ現象で、長母音の短母音化によるものではなく、「おほはら」OFOFARAの第2音節「ほ」(FO)の母音 O と第3音節「は」(FA)の 子音Fの脱落によるものである。(中世の「お」と「を」の表記や発音の混同などの問題については、複雑になるので触れないことにする。)

 難読地名について、漢字の一般的な音訓から類推して、元は漢字の表記通りに読んだのが転訛したのだとして、一般的な読み方に変更してしまう例が多いが、その推定がすべて正しいとは限らない。
 現在、消滅した地名であるが、薩摩の苗代川は、元々、「のしろこ」と呼ばれていたが、明治期に町村制が敷かれたときに「なへしろがは」と改められた。(地元の人は従来通り「のしろこ」と発音していたらしい。)1956年に東市来町美山となって苗代川という地名が消滅した現在も、陶磁器の苗代川焼「なえしろがわやき」で知られている。
 明治期に「なへしろがは」とされたのは、苗の訓は「なへ」であり、川は「かは」であるから、「なへしろがは」と読むのが日本語として正しいという、役人の安直な考え方からだろう。しかし、苗は「なへ」であるが、苗代は「なはしろ」である。雨(あめ)→雨傘(あまがさ)、酒(さけ)→酒樽(さかだる)と転音するのと同じ現象である。
 苗代川は本来、「なはしろかは」で、それが「のほしろこほ」、「のしろこ」と転訛したと考えるべきで、現代仮名遣いなら「なわしろかわ」となるはずである。会津猪苗代湖は「いなわしろこ」であって、「いなえしろこ」ではない。
 宮城県の歴史地名、登米はかつては「とよま」であったが、現在は「とめ」に改められている。難読地名の読み方を簡易にするというのであれば、遠山に由来する(アイヌ語説もある)という「とよま」という呼称を尊重し、上代の好字二字化によって省略された一字を補って、「登与米」か「登余米」と三文字にすればよかったのに残念に思う。

 難読地名をその由来に基づき、本来の読みに改めることは、その地名語源についての解釈が正しければ否定しない。しかし、その解釈が誤っていれば、その改変を受け入れるわけにはいかない。また、一般に行われている漢字の音訓に引きずられて、地名の由来とは無関係な読み方にしてしまうことも、歴史文化の否定につながっていく。地名はその漢字表記もその読みも歴史文化遺産である。難読地名の呼称変更については慎重かつ柔軟な対応が必要である。

剣道随想

 剣道を始めたのは中二の時で、もう五十三年になる。中、高、大と剣道部に所属し、学生時代に三段に合格し、以後、一度も昇段審査を受けないまま、四十七年が過ぎた。大学卒業後は道場で稽古を続けていたが、三十代に入って、気の合った友人たちが次々辞めていった為、剣道に対する関心が薄れ、その後は、気が進まないまま、月数回、申し訳程度に顔を出すという状態が続いた。道場が閉館となったのは私が四十代後半の頃で、その後、剣道については、十年近くブランクがあった。
 五十代後半になって、母校の大学で月一回のOB稽古会が始まったのを機会に、稽古を再開した。気心の知れた者同士なので雰囲気もよくて、七年ほど続けていたが、三年前、引っ越しして、大学から遠くなった為、新居の近くの剣道クラブに入会し、週二回、稽古に参加している。そこで稽古するようになって、自分が学生剣道の延長から一歩も出ていないことを痛感し、これまでの剣道からの脱却を目指し、四段取得を目標に修行しなおしているところである。

 ところで、武術というものは(馬術や水練などを除き)、格闘で相手を制圧することを目的としている。本来、剣術は刀剣で敵を殺傷する為の技術であった。戦場における命のやり取りの中では、武芸の技倆のみならず、身体能力と判断力、恐怖に打ち克つ精神力が欠かせない。乱世を生き抜く為には、武士は平時にあっても、自己の身体と精神の修練を重ねていく必要があった。武芸を通じて身体及び精神を鍛練し、倫理、道徳、礼儀を重んじ、作法にかなった所作を習得することが武士の美徳とされた。江戸時代に入って太平の世となり、そうした要求に答えられる武士はそう多くはなかったであろう。それでも、指導者の努力や武士の鑑と称えられる人物の存在があって、「武士道」と呼ばれる精神文化が維持されてきた。その過程で、剣術の稽古、技の研鑽に励むことが精神面の向上に繋がると認識され、「剣道」という語が生まれたのである。

 剣道の稽古は、「心気力の一致」を目指し、精進していくことにある。「心」は知覚、判断力、「気」は気迫と集中力、「力」は身体から発する力を指す。「心気力の一致」があってこそ技が完遂する。武道全般について言えることであるが、技を発揮するに当たって、技法の習得、ムダ、ムリ、ムラの無い身体操法に加えて、不要な思考や感情を排除した的確な判断と集中力が要求される。それを可能にするには、日頃から身体の鍛錬、知覚の錬磨を怠ることなく、日常生活においても、思考、感情、欲望の断捨離、及び言葉、行動の断捨離を心掛け、行住坐臥するに正しい姿勢と合理的な身体動作を意識し、健康や食事に配慮することを実践していくことである。そして、「心の断捨離」と「合理的な身体動作」を追求していけば、究極的に、「精神と身体の自在制御」の域に達する。「剣禅一如」とはこのことである。

 とはいえ、武道の世界で達人と呼ばれている人物がすべて人格者というわけではなく、倫理的に問題のある人物もいないわけではない。しかし、真の達人は、相手を自己と対立する存在とはみなさず、自己と相手とを客観視し、感情を排し、恐れず、争わず、無欲にして、技の完遂を通じての自己実現をはかる。そして、それが可能な人間であれば、日常生活においても、欲望を制御し、感情に左右されず、穏やかでいて、しかも胆力を持った人物として行動する。武道に精進することによって、そのような境地に到達し得たということは、聖人君子とは別の観点で、人格の完成であり、その人生の過程はひとつの芸術といえる

 我々にとって、達人の境地というものは、夜空遠くに輝く星を眺めるようなものではあるが、日常においても、常に「心の断捨離」を心掛け、「合理的な身体動作」を意識する習慣を身に着けることに、剣道を学ぶ意義があるのだということが、今頃になって、やっとわかった。数年後には七十歳になるが、少なくとも、あと十年は稽古が可能であろう。少しでも遅れを取り戻し、剣道を通じて人生の収穫を得ることができればと思っている。

「穴太」の読みについて

 「穴太」、「穴生」という地名が各地にある。いずれも「あのう」と読む。旧仮名では「あなふ」と表記される。「あなほ」→「あなふ」→「あのう」と変化したものである。吉野の「賀名生」もかつては「穴生」と表記されていた。いずれも天皇、皇族に奉仕する名代(なしろ)の「穴穂部」(あなほべ)に由来している。穴穂部は安康天皇の諱の穴穂皇子(あなほのみこ)、または皇居の石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)にちなんだものである。

 安納芋で知られる種子島の安納は「あんのう」と読むが、「安」の字は万葉仮名では略音仮名で「あ」の音を表しており、地名や人名でも安芸、安曇、安倍などの例がある。鹿児島県志布志にある安楽という地名も、現在は「あんらく」であるが、かつては「あら」で、佳字を当てたものである。さて、安納であるが、納の音は旧仮名で表記すれば「なふ」で、安納は古くは「あなふ」であったと考えられる。すると、穴穂部に由来するのではないかと考えたくなる。しかし、穴穂部の設置は雄略天皇の頃とされており、当時、種子島大和朝廷の版図に属してはいなかった。また、安濃、阿野といった地名についても、穴穂部と関連がありそうであるが、「ほ(ふ)」を表す漢字が含まれていないため、それと断定できない。
 ところで、「穴生」の生が「ふ」と読まれるのは、芝生(しばふ)でわかるように、草木の生い茂ったところを意味し、麻生(あさふ→あそう)、瓜生(うりふ→うりゅう)、蒲生(かまふ→がもう)、柳生(やぎふ→やぎゅう)といった例がある。

 古代では、漢字二字の地名は、二字ともに音、訓のどちらか一方で読み、音訓混用は極めて少ない。太の字を「た(だ)」と読む場合は、伯太(はかた)、加太(かだ)のように他の一字も音読するのが普通である。滋賀県にかつてあった栗太(くりた)郡は、古代は二字とも訓読され「くりもと」であった。音訓混用の地名の多くは、栗太の例のように読みが変化したものか、でなければ、後世の当て字と考えられる。
 「太」の訓は栗太の例にあるように「もと」があるが、一般には「ふと」と「おほ」である。しかし、「ふと」は「ふ」と略されて用いられることは無い。「おほ」なら、穴太は「あなおほ」となるが、古代日本語では母音の連続を嫌うので、川音が「かはおと→かはと」となるのと同じく、穴太は「あなおほ→あなほ」となるはずである。「おほ」なら通常は「大」の字を用いるが、「太安万侶」の例もある。「太」は、最上級的な「大」であり、また、尊称にも用いられるところから、書き手によってはこの字が好まれたのではなかろうか。

 ところで、穴穂部は正倉院文書では「孔王部」と書かれている。漢字の使い分けとしては、「穴」は凹みや空洞を指すが、「孔」は同じ空洞でも、瞳孔や鼻孔のように(光や空気など)何かが通るといったニュアンスがあると説かれている。もっとも、日本語においてはともに「あな」で区別が無い。
 上宮記逸文では、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を「孔穂部」と記している。「孔穂部」と「孔王部」は同じ語の異なった表記と考よい。しかし、「孔王部」の「王」は「ほ」とは読めない。「おほきみ」の「ほ」と考えるには無理がある。王は天皇を意味すると考えるのが自然である。安康天皇=穴穂天皇(あなほのすめらみこと)を漢風に「孔穂大王」とし、さらに「孔王」と略したのであろう。「穴王」では穴に住む獣の王といったイメージを受け、何とも野卑である。一方、「孔」は中国の姓でもあり、孔子を連想させ、「穴」より「孔」の方が字としては好ましい印象がある。「孔王」とすれば格調も高い。よく考えたものである。

 

愛犬の死

 先日、愛犬が亡くなった。11歳の誕生日を迎えた翌日のことだった。その5日前に私が散歩させていて家の近くまで戻ってきた時、彼が突然倒れたので、あわてて抱きかかえて帰り、妻とともに知人の車で動物病院に駆け込み、一命を取り留めることができた。その時に初めてわかったのだが、心臓を包んでいる膜の中に血液が溜まって心臓を圧迫しており、それも心臓にできた腫瘍が破れて出血したのが原因だと言われた。心タンポナーデという病名だった。そうとも知らず、これまで、彼の健康の為と、積極的に散歩させ、走らせたりしたのが、却って症状を悪化させていたのだ。苦しかったんやな、ずっと我慢してついて来たんやな。ごめんな。ほんとにごめんな。
 病院で救命処置として、溜まっていた血液を抜き取り、心臓マッサージを実施してくれたが、その最中に二度も心臓が停止したが、幸い蘇生させることができた。それでも一時的な延命措置に過ぎず、獣医師の先生からは、帰宅の車中で亡くなる可能性が高いが、入院治療中に亡くなってしまうよりは、家族のそばで死なせるほうが良いとの判断で、連れ帰ることにしたが、二日後には呼吸も安定し、以前の彼と変わりなく家の中を動き回るようになったので、一安心した。それからは、心臓に負担が掛からないよう、家族で見守り、彼は家の中では排泄しないため、抱きかかえて外に連れ出し、少し歩かせたうえで、排泄させていた。
 最後の日は午前中、妻が彼を抱き、私も一緒に公園に行ったが、少し歩かせてやると、彼は地面をクンクンと楽しそうに嗅ぎ回っていた。明後日には病院で再検査してもらう段取りになっていた。散歩から帰宅して5時間程後、リビングでソファの上で寝そべっていた彼が、私と妻がちょっと目を離した隙に、飛び降りたのか、ソファから落ちたのか、床の上で苦しがってもがいていた。あわてて病院へ運んだが、手遅れだった。

 彼は生まれつき右の前足がまっすぐ伸びていなかったが、歩いたり、駆けたりするのに、特に不自由は無かった。若い頃は、ジャックラッセルテリアらしく、活発な子だった。5~6歳の頃だったか、指間炎になり、時々、足の指を齧ったり、痛そうに歩くことがあったが、それ以外は元気だった。昨年の夏あたりから動作がやや緩慢になり、散歩の途中で立ち止まって動こうとしなかったり、食欲不振になったりしたが、年を取ったせいだと思っていた。ただ、時々おかしな咳をすることがあったので、知人の助言で、昨年の9月に心臓の検診を受けたが、異常は発見できなかった。11月頃、突然、音に反応しなくなったので診てもらったところ、水頭症に罹っているのがわかった。びっくりしたが、薬を呑ませているうちに、聴力も回復した。ただ頭が重いのか、不快感があるのか、時々クッションに頭を突っ込んで体を丸めていることがあったが、普通に元気な時もあったので、命に関わるような状況ではないし、水頭症でも重症ではないし、15歳ぐらいまでは大丈夫だろうと思っていた。彼が心臓を患っているとは考えもしていなかった。

 犬を家族に迎える以上、先立たれることは覚悟しておかねばならず、寿命の差は自然の摂理として受け入れるほかはないが、11年の歳月は、人間なら小学校5年生になるまで愛情を注いで育てた子に等しいわけで、そんな末っ子の甘えん坊が亡くなったと考えると、とても愛(いと)おしくてたまらない。犬の寿命としても、せめて、あと4~5年は生きていてくれてもおかしくはなかったのにと思う。


 彼の名はコマ。妻がソウルの出身なので、韓国語でちびっ子を意味する「コマ」と名付けたのだ。彼は本当に我が家の「ウリ・コマ」my little kid だった。

許蘭雪軒の「少年行」について

朝鮮、李朝時代の薄幸の女性、許蘭雪軒の漢詩を取り上げてみる。

少年行

少年重然諾 結交遊侠人
腰間玉轆轤 錦袍双麒麟
朝辞明光宮 馳馬長楽坂
沽得渭城酒 花間日将晩
金鞭宿倡家 行楽争留連
誰憐揚子雲 閉門草太玄

少年 然諾を重んじ 遊侠の人と交りを結ぶ
腰間に玉轆轤 錦袍には双麒麟
朝(あした)に明光宮を辞し 馬を長楽坂に馳す
沽(か)い得たり 渭城の酒 花間 日将(まさ)に晩(くれ)んとす
金鞭 倡家に宿り 行楽 留連を争う
誰か憐まん 揚子雲の 門を閉ざし太玄を草(そう)するを

 希布の一諾と言う言葉があるが、信義を貫くことを重んじ、任侠を志し、遊侠の徒と交わる若者がいる。意外や、彼は歴とした貴公子である。腰に佩玉を帯び、双麒麟を刺繍した錦の衣に身を包んでいる。玉轆轤とは装身具で腰に帯びる環状の佩玉であろう。
 彼は、朝のうちに朝廷での務めを終えると、妓楼に向かって馬を走らせる。明光宮、長楽宮は漢代の宮殿。この場合、明光宮は朝廷を指し、長楽宮(押韻の為、長楽坂としてある)は妓楼を意味する。妓女を宮女に譬えている。そこで美酒を求め、美女(花)に囲まれ、黄昏に至る。馬を倡家に繋ぎ、妓女と戯れつつ、居続けて数日を送る。 
 堅物の学者、揚子雲先生は家に閉じ籠って書物ばかり書いている。何と憐れなことよ。揚子雲とは前漢末の文人、太玄経(易学の書)を著した揚雄(子雲は字)のこと。

 少年行とは、楽府(がふ)と呼ばれる古体詩の題にちなんだもので、同じ題目で、唐代には絶句形式のものも多く作られている。李白、王維、崔国輔、高適と言った詩人の作品が存在する。いずれも、血気盛んな若者の自由奔放な生き様を詠じたものである。

 壮士と酒と美女の取り合わせは、少年行という主題に即した題材であり、李白の少年行にも「笑入胡姫酒肆中」とある。両班の淑女たる許蘭雪軒がなぜこのような詩を作ったのだろうか。
 儒教に抑圧された社会、男尊女卑の風潮の中で、才能ある女性として自己を実現を図りたいという願いの伝わってくる作品である。彼女の思い描いた、身分制度に縛られない任侠の士は、彼女の死後、弟の許筠が作出した人物、強きを挫き弱気を助ける義賊、洪吉童の人物像とも相通じている。

韓国人と三国志演義

 これは平成元年にある会報に掲載してもらったものです。若干の字句の修正のうえで当時の文章を転載します。

 

 韓国の人々は昔から中国の古典に親しんできた。なかでも「三国志演義」で活躍する英雄たちの話はよく知られている。格言として「三顧草廬(サムゴチョリョ)」、「水魚之交(スオジギョ)」などが用いられ、また「地獄の沙汰も金次第」を「トニ・チェガル・リャン」つまり「お金が諸葛亮孔明)」と表現する。

 大根を「ムウ」というが、これは蕪を指した「武侯菜(ムフチェ)」の転訛であり、諸葛武侯(亮)にちなんだものといわれる。(ムウについて満州語由来説があるが、これは逆で、韓国語から満州語に入ったものであろう。)

 ところで、弟や妹を指す韓国語「トンセン」は「同生」と書く漢字語であるが、中国の古典にも現代中国語にもこの語は見当たらない。これは韓国で生まれた言葉らしい。もっとも私は、この語も三国志演義が出典と考えている。

 「世説新語」によると魏の曹操の子、曹丕は、後継者の地位を争って不和となった、弟の曹植に対し、七歩のうちに詩を作れ、できぬときは死罪に行なうとの難題を出した。植はみごとに六句の詩を詠じ、兄を恥じ入らせたという。いわゆる「七歩の詩」である。

 三国志演義では、少し改変され、植は兄の出した「兄弟」という題に対し、即座に四句の詩を賦したことになっている。

 

 豆を煮るに豆萁 (まめがら)を燃(た)く

 豆は釜の中に在って泣く

 本是れ 根を同じくして生じたるを

 相煎(に)ること 何ぞ太(はなは)だ急なるを

 

 この第三句「本是同根生」、「豆(弟)である自分は、豆がら(兄)と同じ根から生まれたものではないか。」 この「同根生」から弟(妹)を指す「同生」の語が生れたと解してよいであろう。

舎弟

 「義家朝臣と舎弟義綱と権を互にし、両方威を争ふの間…」(百錬抄)。高校時代、日本史の副読本で読んだ文章であるが、単に“弟”でよいのに、“舎弟”とわざわざ二文字にする必要があるのかと疑問であった。
 “舎弟”の語は「六国史」にも使用例があるが、「将門記」、「陸奥話記」、「保元物語」、「平治物語」に始まる軍記物語に始まり、江戸期の「藩翰譜」、などに至るまで、武士が活躍する書物には、「摂津守頼光が舎弟、大和守頼親」「楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て」など“舎弟”の二文字が愛用されている。もっとも、頼山陽の「日本外史」では“舎弟”の語は用いず、単に“弟”と記してあり、漢語の用法としては正しい。
 澤村美幸氏の『方言伝播における社会的背景-「シャテー(舎弟)」を例として』によれば、舎弟とは「嫡子より格下の男子」を意味するという。その説に遵えば、源頼朝から見て、範頼も義経もともに舎弟(将軍の御舎弟)であるのは当然であるが、義経は範頼の弟であるが、範頼の舎弟には該当しないことになる。吾妻鏡には頼朝の母方の叔父、祐範を「二品御母儀舎弟也」と記している。頼朝の母の弟で、熱田大宮司家の出身ではあるが嫡子ではない人物と解すべきであろうか。
 しかし、“舎弟”という語の以上に述べてきた用法は、我が国独自の用法であって、漢語における本来の“舎弟”は、他人に対して自分の弟のことを指して言い、他人の弟を“舎弟”と呼ぶことはありえない。そして“舎”は、舎弟、舎姪(姪の字は中国では甥を指す)のように自分から見て目下の親族に付け、目上の親族に対しては家父、家兄といったように“家”の字を冠する。なぜか“舎兄”という言葉もあるが、一般には“家兄”の語が用いられる。また、“家兄”、“舎弟”の語を、血縁は無くても自分と特別な関係にある人物を兄弟関係になぞらえて表現することもある。
 なお、韓国語でも“舎弟”の用法は中国語と同様であり、また、“家兄”は兄の弟に対する自称、“舎弟”は弟の兄に対する自称として、手紙などでは使われるらしい。
 “舎弟”の語は、唐代では詩題に「月夜憶舎弟」(杜甫)や「別舎弟宗一」(柳宗元)といった例が見られるが、これは作者自身の主観的な表現であり、一般の漢籍の客観的な叙述では、“弟”と記す。あるいは、“舎弟”の語は唐代においては本来、口語的な表現だったのではないか。中国語の会話においては、“虎”、“狐”“雀”といった一音節語よりも“老虎”、“狐狸”、“麻雀”といった多音節語の方が、耳で聞いて他の語と紛れることが無いからである。日本語にもそういった現象がある。
 「三国志演義」では、“舎弟”は、劉備が董承に対して関羽を指して言う場合に、また、諸葛瑾周瑜に向かって孔明を指して話す場合に用いられ、“拙者の弟”といった感覚であろうか。また“家兄”の語も、関羽が劉延に対して劉備のことを、諸葛均劉備に対して次兄の孔明のことを話す場合に用いられている。もっとも、「三国志演義」は明代の口語(白話)で書かれており、“家兄”、“舎弟”も明代当時の用法と言える。
 最後に、我が国のやくざ社会で使用される“舎弟”について、「三国志演義」の「桃園結義」(明代の任侠社会の習俗を反映している)が連想されるが、直接の関連は無い。