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秋月春風 ~おじさんの初ブログ~

歴史、読書、ペン字、剣道、旅行……趣味の話を徒然と。

天下の取り方

 織田信長斎藤道三は生涯にたった一度しか会っていませんが、その一度の会見で道三は信長の人物を見抜いたと言う話はよく知られています。しかし、道三に評価されたとはいえ、当時の信長に対する尾張国内の評判は最悪でした。 

 

 信長は同族や他の諸豪族を屈服させて尾張一国を統一していくのですが、尾張国内の敵対者の多くは信長と面識があるか、身近に信長を見知っている人物が何人もいたわけで、信長に関する情報は道三以上に豊富でした。にも関わらず、彼らは信長を「たわけ者」としてしか認識できず、彼の人物、力量を正しく判断できなかったことになります。 

 

 信長は尾張統一後、近隣諸国を切り従えていきますが、信長に滅ぼされた大名達は義弟であった浅井長政、反旗を翻した松永久秀などはともかく、当初より対立していた今川義元朝倉義景武田勝頼といったライバル達は首実検の場が信長との初対面となったわけですが、信長にとっては、むしろ面識の無いほうが個人的な感情に捉われることが少なく、客観的に相手を判断できたのかもしれません。

 

 人物を観るには伝聞に頼るよりは直接会ってみるほうが確実かもしれませんが、先入観に捉われたり、観察力が不足していたり、第一印象による好悪の感情が先立つなどして判断を誤る場合もないとは言えません。 

 

 羽柴秀吉の中国攻めにおいて、いったんは織田氏に服属していた別所氏を始めとする播磨の諸将が反旗を翻し毛利方に走ったのも、軍議の場における秀吉の言動に対する反感も一因であったと言われていますが、自分を正しく評価してもらえなかった場合、面識を持つことは却って逆効果になることもあるわけです。

 

 秀吉は信長横死後の後継者争いにおいては、柴田勝家などかつての同僚大名達の人物・力量・性格といったものを判断して戦略を立てることが出来たのですが、秀吉を成上がり者と侮る四国、九州、関東、奥州といった遠国の実力のある大名、長曽我部氏、島津氏、北条氏といった実力者達に対しては、武力でもって屈服させていく他はありませんでした。 

 

 しかし、秀吉に屈服させられた大名達は、秀吉に対面し彼の謦咳に接するに至って、彼に抵抗することの無益を悟り、あの愚劣な朝鮮出兵にほとんど異を唱えることができず、唯々諾々と従わざるを得ませんでした。

 

 秀吉の天下統一後、諸国の大名達は皆、京、大坂に屋敷を持ち、様々な会合を通じて互いの面識を深め、風馬牛であった大名同士の交流も始まり、互いの人物を観察しあうようになります。そうした場で、石高・年齢・人物といった面で最も存在感を発揮したのが徳川家康だったと言えるでしょう。

 

 豊臣政権の大老衆は徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景上杉景勝の六人ですが、器量人として評価の高かった小早川隆景は秀吉に先立って死去し、人望のあった前田利家が病に臥すに至りますが、司馬遼太郎氏の人物評論を借りて言えば、毛利輝元は凡庸であり、上杉景勝は愚直、そして宇喜多秀家は若輩者に過ぎませんでした。

 

 こうした状況で家康は自己の存在を諸大名たちにアピールしながら、諸大名たちの人物・大名家中に関する情報を把握し、調略を重ねていき、関ヶ原のたった一戦で天下を手にすることになります。

 

 家康が、信長や秀吉のように敵対する大名を一つ一つ虱潰しにしていく苦労を味わわずに済んだのは、秀吉の天下統一によって諸大名が京、大坂で顔を合わせる機会が増え、大名社会の一員としての集団意識が形成されていく過程で、諸大名達が次代のリーダー、寄るべき大樹の影を求めていたことが家康に有利に働いたと言えるのではないでしょう。

 

 黒田如水伊達政宗のように乱世の風雲の再来を期待した者もいましたが、そうならなかったのは、各大名達の個人的な思惑の単なる集合で動いていた戦国の世はすでに終わり、大名個人の枠を超えた大名集団の心理ともいうべきものが形成されつつあり、時勢を動かすようになっていたからではないでしょうか。