秋月春風 閑人のブログ

歴史、読書、ペン字、剣道、旅行……趣味の話を徒然と。

剣道随想

 剣道を始めたのは中二の時で、もう五十三年になる。中、高、大と剣道部に所属し、学生時代に三段に合格し、以後、一度も昇段審査を受けないまま、四十七年が過ぎた。大学卒業後は道場で稽古を続けていたが、三十代に入って、気の合った友人たちが次々辞めていった為、剣道に対する関心が薄れ、その後は、気が進まないまま、月数回、申し訳程度に顔を出すという状態が続いた。道場が閉館となったのは私が四十代後半の頃で、その後、剣道については、十年近くブランクがあった。
 五十代後半になって、母校の大学で月一回のOB稽古会が始まったのを機会に、稽古を再開した。気心の知れた者同士なので雰囲気もよくて、七年ほど続けていたが、三年前、引っ越しして、大学から遠くなった為、新居の近くの剣道クラブに入会し、週二回、稽古に参加している。そこで稽古するようになって、自分が学生剣道の延長から一歩も出ていないことを痛感し、これまでの剣道からの脱却を目指し、四段取得を目標に修行しなおしているところである。

 ところで、武術というものは(馬術や水練などを除き)、格闘で相手を制圧することを目的としている。本来、剣術は刀剣で敵を殺傷する為の技術であった。戦場における命のやり取りの中では、武芸の技倆のみならず、身体能力と判断力、恐怖に打ち克つ精神力が欠かせない。乱世を生き抜く為には、武士は平時にあっても、自己の身体と精神の修練を重ねていく必要があった。武芸を通じて身体及び精神を鍛練し、倫理、道徳、礼儀を重んじ、作法にかなった所作を習得することが武士の美徳とされた。江戸時代に入って太平の世となり、そうした要求に答えられる武士はそう多くはなかったであろう。それでも、指導者の努力や武士の鑑と称えられる人物の存在があって、「武士道」と呼ばれる精神文化が維持されてきた。その過程で、剣術の稽古、技の研鑽に励むことが精神面の向上に繋がると認識され、「剣道」という語が生まれたのである。

 剣道の稽古は、「心気力の一致」を目指し、精進していくことにある。「心」は知覚、判断力、「気」は気迫と集中力、「力」は身体から発する力を指す。「心気力の一致」があってこそ技が完遂する。武道全般について言えることであるが、技を発揮するに当たって、技法の習得、ムダ、ムリ、ムラの無い身体操法に加えて、不要な思考や感情を排除した的確な判断と集中力が要求される。それを可能にするには、日頃から身体の鍛錬、知覚の錬磨を怠ることなく、日常生活においても、思考、感情、欲望の断捨離、及び言葉、行動の断捨離を心掛け、行住坐臥するに正しい姿勢と合理的な身体動作を意識し、健康や食事に配慮することを実践していくことである。そして、「心の断捨離」と「合理的な身体動作」を追求していけば、究極的に、「精神と身体の自在制御」の域に達する。「剣禅一如」とはこのことである。

 とはいえ、武道の世界で達人と呼ばれている人物がすべて人格者というわけではなく、倫理的に問題のある人物もいないわけではない。しかし、真の達人は、相手を自己と対立する存在とはみなさず、自己と相手とを客観視し、感情を排し、恐れず、争わず、無欲にして、技の完遂を通じての自己実現をはかる。そして、それが可能な人間であれば、日常生活においても、欲望を制御し、感情に左右されず、穏やかでいて、しかも胆力を持った人物として行動する。武道に精進することによって、そのような境地に到達し得たということは、聖人君子とは別の観点で、人格の完成であり、その人生の過程はひとつの芸術といえる

 我々にとって、達人の境地というものは、夜空遠くに輝く星を眺めるようなものではあるが、日常においても、常に「心の断捨離」を心掛け、「合理的な身体動作」を意識する習慣を身に着けることに、剣道を学ぶ意義があるのだということが、今頃になって、やっとわかった。数年後には七十歳になるが、少なくとも、あと十年は稽古が可能であろう。少しでも遅れを取り戻し、剣道を通じて人生の収穫を得ることができればと思っている。